質問8: 型の練習だけで強くなれるのですか?

 我々が中国武術として眼に触れるものは型の演武がほとんどですね。しかし演武と実際の練習とは異なるものであることを認識しなければなりません。

 「基本・型・組手が揃ってこそ体系的な空手のシステムである」、と知人の空手家が言っていますが、徒手武術においては中国武術も同様です。これら三つの要素は本来どれも欠くことはできません。

 「形が不正ならば、法は存せず」。という言葉が古くからあるとおり、型を学び、練習することはその門派(流派)の“方法”を学んでいる、ということです。基本、型を練り上げることで形をつくり方法を学んでゆく、そうでなければメチャクチャに殴ったり、蹴ったりする秩序のない、方法のない、ものとなってしまいます。

 従って“型だけやっていて強くなれるのか?”というより型を練習しないとそもそも強くなれない、と言えます。その先に対打、散手、推手といった対練、相対練習を行い型の意味を深く学習していきます。

質問7: 武術の練習は精神修養に役立つのですか?

 日本の武道でも精神修養の重要性を説いていますが、中国においても仁・義・禮・智・信、といった徳目を重視しています。しかし、こうした徳目は武術を学ぶ、学ばない以前に人として必要な徳目である、と考えられています。こうした道徳的な意味における精神修養は、命のやりとりをおこなってきた武術家には、精神のバランスを正常に保つためにも必須のことなのです。

 精神修養に役立つか、というご質問ですが、武術の練習は身体的な鍛錬のみならず、メンタル面での発達も訓練とともに自然に促されるものなのです。内外兼修、内外合一という言葉がありますが、中国武術は人間の全面的なエネルギー、つまり内面的外面的すべてを含めた鍛錬、発達を含みます。

 極端な例ですが、「火事場の馬鹿力」という言葉があります。これは精神が「ここ一番!」と意志した結果出された奇跡的とも言える力ですが、こうした力は「やるゾ」と意志した精神、内面的なエネルギーと身体的な力とが合致して生み出される力です。武術家はこうした“力”を火事は起こらなくとも意図的に発揮するのです。こうした現代の常識では有り得そうにないことを昔日の武術家たちは普通に練習してきた、つまり練習自体にそうした能力の開発が自然に含まれていた、と言えるのです。従って精神修養に役に立つ、というより武術の鍛錬とは身体的訓練のみならず精神の修養、発達も同時に行う、と言えます。

質問6: 段位制度はありますか?

 ありません。
 こうした制度は中国には元々ありません。これは前述の5にも関連することですが、我々日本人が中国文化を学ぶ上で大切なことは、日本という環境で見聞したことを基準に考えていては中国文化を理解することはできない、ということです。学習当初はそれを頼りにするしかないのですが、学習が進むにつれその基準で理解しようとしても理解することができなくなってしまいます。そして理解するための材料を身につけることだけでもかなりの努力と時間を要します。時間を無駄に費やさないためにも学習当初から「これは中国のものである。」という心の準備を持つべきです。
 武壇で学習される武術は黄河流域で発生、発展してきたものであるという点に留意して学習を進めて行きたいものです。

質問5: 試合はありますか?

 ありません。
 武壇日本分会では総教練大柳が 先師劉雲樵より伝えられたものをそのまま伝えています。それは技術のみならずその精神もまた受け継ぎ、推広するためです。

 試合を通して技を磨き、試合のために一生懸命になることで上達してゆく、という概念は武壇にはありません。武術とは命のやりとりであり、スポーツの概念とは全く違うものなのです。 先師はその後半生、総統(大統領)の護衛を務めるシークレットサービスたちに武術を教える教官でした。こうした場で訓練されるものはルールのない、無秩序な暴力から要人を守るために為されるものです。もちろん武術はそのようなことだけのために存在価値があるわけではありません。しかしそれは武術が命のやりとりに関わるという一つの事実でもあります。

 我々は伝えられてきた武術を伝えられたままに練習し、“そのもの”に触れることを重視しています。そしてそれは武学として学ばれるべきものであり、武学に試合はあり得ません。敢えて言えば、学んだものを試す、試されるのは試合場という固定化された場ではなく、日々変化する我々の日常生活の場であり、社会生活の場であると言えます。それを狭義的に捉えればストリートファイトで試すのか。と捉えることもできますが、そこで戦えば犯罪者になるだけです。従ってそのようなことに遭遇して現実的に如何に対処するか、ということにも智慧が必要です。
 武学として学ぶということは、一つには武術を学んで智慧を得るという言い方もできます。困難を如何に乗り切って充実した人生を過ごすか、それはストリートファイトに遭遇したら、ということ以上に広範な、そして切実で身近な問題ではないでしょうか。

 生活習慣の異なる日本人である我々が、中国の文化を習得するためには無駄に時間を浪費せず着実に学ぶことが重要なのです。

質問4: ゲームやマンガで八極拳を知ったのですが、同じものなのでしょうか?

 ゲームやマンガの一部には八極拳の師範をモデルにして作られ、表現されているものもあります。という観点から言えば同じものとは言えます。しかし、そこから作られたイメージで八極拳をこういうものだ、と判断するのは危ういものです。
 武術は実際に身体を通し、考慮するという過程を経て理解されるものです。決して画像を見たり言葉を知っただけでわかるものではありません。もちろん画像や言葉を通じての学習も大切ではありますが、あくまで練習して現実に身体を動かしたかどうかという前提があってのことです。
 現実の武術は現実の生活と同様、ゲームのようにマンガのようには進行するとは限りません。物事がマニュアル通りに、シナリオ通りに進行しなかった場合にどう対処するのか?ということを考慮し、そうした事態に対応できなければならないものです。

 「一知半解」。知っていることと理解していることには天地の差があるのです。八極拳は武術です。武術である、ということはあなたの実生活に直接役立つものであるということです。これを知ってもあなたの実生活になんらかの役に立たなければ、何の意義もない存在になってしまいます。

質問3: 年齢・性別に制限はありますか?

 制限は設けておりません。但し中学生以下の方は保護者の方の同意を必要とします。
 また練習内容に関しましては各人の体力、年齢、性別を考慮し学習を進めます。武術は厳しい練習を経ることによって学習を継続し、目標に到達しなければなりません。しかし無理な練習を続けると健康を害し、練習そのものを続けることができなくなります。
 我々武壇は武学精神を学び武徳を養うことを標榜しております。従いましてそれに反するような無理な練習はありません。年齢・性別の制限なく健全な身体作りを通して、中国文化の精華を習得していきます。

質問2: 発勁とは何ですか?

  日本人は漢字を使用するために、却って漢字(中国語)が本来持っている意味とは異なった誤解や空想的な想像をしてしまいがちですが、“発勁”というのは“勁を発する”という意味で、それ以外の何ものでもありません。この“勁”とは“力”という意味ですが、更にこれらを区別すると、“勁”とは工夫された、瞬間に働く力のことです。
武術を習得している人たちは練習の修練によって得られる“力”を“勁”と表現し、力の出し方の違いによって類別して表現します。これは練習した技を理解していく上で極めて合理的な用語です。ただ日本という環境に育った日本人にとっては時に神秘的に感じられがちで、これまで多くの誤解を生じてきた用語でもあります。しかし、練習という現実を通してこうした言葉に触れると、練習しているものの理解を深める上で重要かつ身近なものと感じられるのです。

質問1: 何年くらい練習すると強くなりますか?

 練習の結果どのような変化が得られ、練習前とは異なった精神や身体の現象をどのように捉えるかによりますが、少なくとも練習開始後半年から一年は練習に専念しなければ、練習開始以前とは違う感覚は得られないでしょう。しかもその練習開始以後の感覚が、あなたがそれまでイメージしていた“強さ”と一致するとは限りません。日本人の我々にとって、中国人が営々と築いてきた技術、そのバックボーンである精神文化を理解した上で練習できるようになるだけでもかなりの時間を要します。中国武術のことを単に“功夫”と言いますが、これには“時間”という意味もあります。
 半年から一年かけて練習して練習開始以前とは違う感覚が得られたとしても、それは序の口。実際は多くの人が練習を断念してしまいます。しかし、この期間にしっかりとした中国武術の基礎体力、基礎概念を身につけることがかなり重要なことなのです。練習開始当初は中々気付き難いのですが、この期間にしっかりとした基礎を築くことが将来専門的なことを習得していく上で理解を深めるキーポイントになるのです。
 これは実際に練習を通して中国武術に触れその上で、考え理解してゆくことです。
 そうした過程を経て“強さ”ということを考えたいものです。